2013年11月5日火曜日

女川で阿部美紀子さんにお会いする、の巻

仙台に暮らしながら、原発反対の声を挙げることは、
そんなに難しいことではないと思うのです。
仙台からは、原発は見えません。
そこで働く人の姿も、原発があることで成り立つ町の暮らしも、
仙台の私達にとっては、少し遠い存在ではないでしょうか。

例えば、隣の人が、兄弟が、親が原発で働く作業員だったら。
原発に賛成するか、反対するかで、生業の在り方や、
周囲との人間関係が大きく変わるとしたら。

1960年代、原発誘致をめぐって、
町を二分する壮絶な推進、反対運動が繰り広げられた女川町。
1979年から本格的な工事が始まり、1983年に初臨海。
その後、約30年にわたって東北、関東地方(夏期は東京電力にも融通)の大都市に、
送電してきました。



















女川原発から1~2kmの小屋取浜から撮影。
付近には釣り人がちらほら。



2011年、東日本大震災によって、女川原発も被害をこうむり、
現在、1~3号機のすべてが停止中です。
女川町でも、800人以上の方が亡くなりました。


















高台になっている女川町立病院から撮影。
病院にも津波が押し寄せ、1階まで浸水した。



















下から見上げた女川町立病院。
震災直後、町立病院の下は湖のようになっていた。




震災後、ご自身も被災されながら、
女川町議選で脱原発を訴えて当選された阿部美紀子さんに、
お会いしてきました。
























1男4女の母でもある阿部さん。
現在は、町立病院横の仮設住宅に暮らす。





カエル:まずは震災直後のことをお聞きしたいと思います。あの時、阿部さんはどちらにいらっしゃいましたか?

阿部:私は石巻で車を運転していました。すごい揺れを感じてラジオをつけたら、津波警報が出ていて、
    慌てて家に帰ろうとしたんですけど、渋滞で全然進まなくて。
    津波で橋は落ちているし、雪で前も見えなくて。
    たまたま前にパトカーがいて、パトカーの通れる道なら大丈夫だろうと、
    パトカーの赤い点滅を頼りに帰りました。
    いつもなら30分で帰れるのに、6時間かかりました。
    家に着いたら、津波で流されて、何もなくて。
    家にいた母と息子は高台の親戚の家の2階に避難していて、無事でした(1階は浸水)。
    
    津波はね、何回も来たんですよ。
    3回目の津波が夜に来て、真っ暗だから何も見えないんです。
    「ガチャガチャ。ガチャガチャ。」という、何かが流されてぶつかる音が聞こえてくるんです。
    その音に混じって、「助けて。助けて。」という声が聞こえて。
    2階から懐中電灯で照らしても、真っ暗で、どこから声がしてるのか分からないんですよ。
    今思えば、ビルの鉄筋か何かにつかまってたんでしょうねえ。
    私たちもどうしようもなくて。
    ただ、2階から海に向かって、「がんばれー。がんばれー。」って、声をかけてました。

    その後、避難所を転々として、今は町立病院の仮設で暮らしています。
           80才を過ぎた父と母は、昨年亡くなりました。


カエル:震災後、女川原発が避難所になったと聞いています。

阿部:そうなんです。あれはひどい話で、議会でも質問しました。
    出島の出島地区と寺間地区、宮ケ崎地区の人たちは、ヘリで避難したんです。
    女川原発周辺の人たちは、最初は女川原発から少し離れた女川原子力PR館に避難しました。
    それから、東北電力の指示で、数百人の人が女川原発の中に避難したのです。
    
    あの時、原発内の計器も壊れて、何も測定できない状況でした。
    万が一、さらに大きな地震や津波が来たら、大惨事になっていたところだったのです。
    6月上旬まで避難所だったのですが、閉鎖されて一週間後、
    4月の降下物の測定結果が発表されました。
    放射性ヨウ素が45000bq/kg検出されました。
    逆算すると、3月13日の時点で、
    女川原発周辺には、20万bq/kg以上の放射性ヨウ素が降り注いでいたことになります。
    (注:3/13の原発敷地内のモニタリングポストの数値は21μsv/h。福島原発から流れてきたものと考えられる。)
    どうして、女川原発の中に避難させたのか、どうしてヘリで避難させることができなかったのか。
    悔やまれてなりません。
    それを、東北電力が原発が地域に貢献したというようにアピールしているのが、許せません。
    
    
    
    
    
                
カエル:阿部さんが脱原発を志したきっかけを聞かせてください。

阿部:私の父、阿部宗悦は漁師をしていまして、原水爆禁止運動にも力を注いでいました。
    核エネルギーの平和利用なんて、ありえないと言っていましたね。
    
    
    石巻の高校を卒業してから、原発反対運動に私も関わるようになりました。
    大学は東京だったのですが、
    東大工学部助手の宇井純さんの公開講座「公害原論」に感銘を受けて、
    1971年には、水俣病のチッソ本社へ直接交渉に行きました。
    大学の長期休みには帰省して、地元で女川原発の反対運動をしてね。
    当時は、こうして帰省する人間のことを「ヒヨってる。」なんて言ってましたが。
    私にとっては、水俣病も地元に建設されようとしている原発も、
    同じ問題でしたから。


カエル:原発反対を訴えることで、周囲からのプレッシャーを感じることはありましたか?

阿部:どうでしょうね・・・。私の父は気性の激しい人でしたから。
    出すぎた杭で打てなかったのかもしれません。
    私自身は感じたことはありませんが、
    子供たちは、「あの家は原発反対だから遊ぶな。」と言われたことがあったそうです。
 


カエル:震災後、女川の皆さんの原発に対する意識は変わったと思いますか?


阿部:変わりましたね。
   福島原発があんなことになって、あちこちで「宗ちゃんの言ってた通りになったなあ。」と言われました。
   震災前は、父と廻船問屋をしていたのですが、
   仕事関係で福島の浪江やいわきの方との付き合いも多かったので。
   皆さん、そうおっしゃってましたね。
   

   でもね、なかなか表には出さないんですよ。
   私に町議選に出るように勧めた人も、
   「自分は表立って、反対は言えないけど、
   このままでは女川の原発反対の灯が消えてしまう。
   あんたなら反対って言えるから、是非出てくれ。」と。
   
   
   父は「そんならあんたが出ろ。」って言ってましたけど。
   もともと、私は人付き合いもそんなにないし、口下手ですからね。
   でも、その言葉に背中を押されて、出ることに決めました。


カエル:これからの女川に必要なものは何でしょう?

阿部:今、町の予算の半分が、電源交付金(原発立地自治体に国から出る補助金)でまかなわれています。
    
    原発に頼らない収益や、雇用を生み出したいですね。
    女川原発も、いずれ廃炉になる時が来ます。
    その時に慌てて、雇用のことを考えても遅いんです。
    今から育てておかないと。
    
    女川にしかないものって、なんだろうって、ずっと考えています。
    女川は、町の八割が山なんですよ。でも手入れされていません。
    例えばペレットを事業化できないかなあ、と考えています。
    それから、桜守の会、という桜を植樹する会がありましてね。
    桜の木でチップを作って、それで女川の海産物を燻製にして売り出せないかなあ、とか。
    

カエル:わっ!それ素敵ですね!

阿部:でもねえ、新しく始める事業には、なかなか補助金が降りないんですよね・・・。
    今、住宅の高台移転が進んでますが、
    これも問題で、職住分離すると、住宅と商店、二重にお金がかかりますし、
    接客しながら、家の仕事もする、というこれまでの海辺のライフスタイルが大きく変わることになります。

    原発ってね、建ってしまうと、なかなか反対運動を続けていくのが難しいんですよ。
    すごくエネルギーがいるんです。
    だから私は、反対するだけじゃなくて、新しいものをつくる方へエネルギーを注いでいきたいんです。
    自然を大事にする暮らしを提案して実践していくことが、原発反対につながっていくんだと思います。


カエル:おお・・・。そのお言葉、原発反対運動40年の重みを感じます・・・。
     今日は本当にありがとうございました。
    
    
    
    
    
   
    
  
   
   

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